2006年9月

自由さとまじめさ(前回のつづき)

 白い紙を広げて、ひまわりの大輪を描こうとするときは、「さてどこから…」と、少しワクワクした、自由な気分になります。ところが固いビルディングなど、人工物を描こうとすると、どうしても「正確に描かねば」という、まじめな気持ちになってしまいます。
 これが絵を描き始めるとき、「直観」から入るか、「分析」から入るかという、昔から絵描きを悩ませてきた問題ですね。
 自由に描き始めたひまわりの大輪を、途中で立体感をつけるなど、まじめさを加えたりすることは、ごく自然なことですし、誰でもやっていることです。
 直観と分析とが一致したときに、作品はほぼ作者の思いどおりに仕上がる、といっていいでしょう。
 ここで問題となるのは、自由に描き始めて、まじめさが加わるという場合ではなく、その逆、まじめに描き始めて“途中から自由さを加える”というケースです。
 たとえば、ビルを描き始めるとき、遠近法にのっとり、稜線の長さ、角度をキチンと見計らった上で進めていくとします。すると途中で「どうも面白味がない」ということで、線や角度を、やや自由に崩してみます。
 これはどんなにデッサン力がある人がやっても失敗します。見るもヘンテコリンな絵になります。
 「自由」さから「まじめ」さへの展開は普通にありますが、「まじめ」さから「自由」さへの展開は、ないのです。
 「分析」からは、どう望んでも「直観」に至らないのです。
 不思議なことですが、本当のことです。
 自由さとまじめさ、あるいは直感力と分析力は、絵を描いていく上ばかりではなく、生きていく上で欠かせない両輪といっていいでしょう。
 絵を描きながら、自らの問題として、よくよく考えていっていいことかと思うのですが、如何でしょうか?

ティザーナのひまわり畑((43×58cm)
けっこう、いいかげんに花を描き始め、後から遠景を描き込んだりして、整え(?)ました。
カ・ドーロの窓から(41×62cm)
建物の秩序に圧倒されそうになったので、手前の石壁の線をまずグイーッとややいいかげん(?)に引きました。それで後はすいすい。

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